私は結構いろんなものから仕事に活用できるものを考えたりします。
仕事に限った話ではないですが、何でも活用というか転用できるものだな、と考えてます。
人の考えたことですから、同じ人が参考にしたって良いという考えでして、例えば子供の頃からハマっているのが「三國志」だったりします。
三國志って今だとゲームや漫画の題材に使われたりですっかりメジャーになったものですが、
小学校2年生の時の夏休みの自由課題で三國志の論文みたいなもの提出したときは、
さすがに同級生から見向きもされなかった記憶が残ってます。
で、仕事をする上でも何となく参考にしたりすることがあって、それは考え方とか何かの局面に直面した際の判断基準の参考にしたり、などなど多様です。
マネジメントに限った話ではないものの、例えば何かすごい成果を出したりする人や、出世していく人などのイメージというか、そういう時って物事思い切った決断や行動力・決断力を見せているイメージがあるように思います。
そういう意味では私は真反対でして、比較的用心深いです。
そういう意味では勇猛ではないし勇気も高くないです。
ただ、それもちょっと「間違ってないゾ!」と思う根拠というか援護射撃がありまして。
三國志を題材にした多々あるコンテンツの中で、王道の歴史小説もよく読んでいるのですが、その中で最も読んだ本が「陳舜臣」著の「諸葛孔明」(上下巻)ですね。
子供の頃に父親が買った本で、当時の本はもうぼろぼろですが、電子書籍もあるので私のiPhoneにしっかり入ってます。
で、この中で物語「三國志演義」でも有名なシーンがあります。
蜀漢初代皇帝の劉備玄徳とその最大の片腕となった諸葛亮孔明が邂逅する、
「三顧の礼」
というお話です。
上述の陳舜臣著の諸葛孔明は、そんな諸葛亮孔明の生涯をクローズアップし、
「三國志演義」ではなく「三國志(正史)」をベースにしています。
その、史実においても物語においても三國志を代表するシーンの直前からのお話です。
諸葛亮以前に劉備の下で知恵を貸した人物に「徐庶(字・元直)」という人物がいます。
演義では中々劇的な出会いをする劉備と徐庶ですが、史実ベースのこの書籍では、いつの間にか二人で談義する仲になっています。
一応、諸々背景などもありますがその辺は端折りまして。
□今回のポイント
劉備と徐庶がいつのものように談義している中で、徐庶は劉備に対し、
「あなたの配下は同じ人しかいないですね」
と言います。
劉備としては、そんなに同じような人ばかりと思っていないし、性格もみんなバラバラだと反論しますが、徐庶はこう返します。
「みんな勇猛です」
戦乱の時代ですから、劉備としては武将などみんな勇猛だろうと反論します。
しかし徐庶はこう返します。
「臆病者も必要でしょう」
劉備からすれば臆病者なんて戦場で役に立たないと思う訳です。
すると徐庶はこう言います。
「臆病だから色々考えます。相手がこう動くかもしれない、こっちの道が広いから人数多いがそう思わせてこっちの方が人数多いのでは、などなどあれこれ考える人が必要です」
劉備はそれを聞いて「策士だな」と回答しますが、
つまり徐庶は当時の劉備の配下にはその「策士」が不足していると指摘します。
勇気と無謀は違うなどとよく聞くものですが、何であれ臆病なことはこうしてみると悪いことばかりではないということです。
最近は上述の通り三國志など歴史物はメジャーになりましたし、中にはオンラインゲームなど多くのプレイヤー同士がバトルしたりする中で、指揮が上手いプレイヤーもいて「軍師」なんていう称号で呼ばれる事もあり、それはそれでかっこいいものです。
ただ、「軍師」だろうが「策士」だろうが「参謀」だろうが、何にせよこれらの人はよく色々考えているのでしょうね。
その意味で臆病者というのは、得てして色んなことを考えるのではないでしょうか。
失敗ばかり考えるとかネガティブな意味というより、徐庶の言うとおりで何か物事が目の前にあった際にありとあらゆるケースを考えるという感じでしょう。
「臆病」と表現してますが、「勇猛=無謀になりえる」ことへの皮肉にも聞こえるように感じるのは考えすぎかもしれませんが、まず考えることの重要性を説いていると私は受け取りました。
あらゆるミッションを課せられる管理職ですが、「やる・やらない」を検討したりスピード感を求められるシーンで焦ったりしてしまいがちですが、1クッション「考える」ことを常とすると、思いのほか落ち着きますしできるできないの判断も明確になり、できない見込ならヘルプを依頼すれば良いだけです。
策士とか軍師とか仰々しいこと関係なく、何かする時の基本所作とするのが良いでしょう。
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